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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第28回

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改易の嵐、最上家にも

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後から江戸幕府の権力が確立するまで多くの大名家が改易された。関ヶ原で徳川家に敵対した大名は当然ながら取り潰(つぶ)された。

 慶長8年の幕府成立後も改易は続く。初代の家康から秀忠、家光の将軍三代の治世に改易された大名は外様大名が82家、徳川家の親藩や譜代大名でも49家にものぼった。

 なぜこうした大量の改易が行われたのか。それは徳川家の権力基盤を安定させ、幕府を長続きさせるためであったろう。

 関ヶ原直後は戦国の遺風が残っていたし、天下人として絶大な力を振るった織豊政権(しょくほうせいけん)が長続きしなかったことは周知の事実である。徳川家の天下もいつまで続くかは未知数だった。

 隙(すき)あらば取って代わろうと虎視眈々(こしたんたん)と機会をうかがう大名はいくつも存在したはずである。そのような不安要素の芽を摘んでいくことが幕府の創業3代の取り組んだテーマであったのだろう。

 余談だが、明治維新の中心となった薩摩の島津家と長門(長州)の毛利家を関ヶ原直後に取り潰さなかったことは徳川家にとって痛恨であったろう。両家を一気に改易できていれば幕府は265年間で終わらず、大げさに言えば現代でもなお続いていたかもしれない。

 後世の私たちは江戸時代が長く続いたことを知っている。それを前提にすると、こんなに多くの大名を改易しなくても良かったのではないかとつい考えてしまいがちである。だが、この武断政策こそが徳川家が長期支配を実現できた最大の理由であった。幕府の権力基盤が整ったことで4代家綱以降、改易は減少していった。

 義光の死後、最上家が改易されたのは改易ラッシュのまっただ中の元和8年(1622年)、2代将軍の秀忠の時代であった。その理由は何だったのだろうか?

 最大の理由は家臣たちがまとまらず、内紛を繰り返していたことだ。家臣団をカリスマ性をもって束ねてきた義光が世を去ると、家中の権力構造は混沌(こんとん)としてしまった。

 半自立した家臣たちが張り合うことは戦国の世なら活力源にもなるが、太平の時代は災いの元になってしまうのである。

山形大学特任教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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