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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第29回

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家臣団分裂で改易に

 慶長19年(1614年)に義光が死んだ後の最上家の系譜をここで整理しておこう。義光の後を襲って藩主になったのは三男の家親(いえちか)である。

 家督を継いで早々、家親は大坂冬の陣・夏の陣の際に江戸留守居役を務めた。そもそも家親は家康・秀忠の将軍2代にわたって近習(きんじゅう)を勤めたことがあり、徳川家の信頼はきわめて厚かった。

 ところが、藩主となってわずか3年後の元和3年(1617年)、家親は36歳の若さで早世してしまう。息を引き取った場所には江戸説と山形説があり、その状況にも能楽を見物している最中だったとか、家臣の屋敷で饗応を受けて山形城に戻った直後に事切れた、などの諸説がある。

 いずれにせよ突然の死だったことは確かで、壮年であったこともあって毒殺説もささやかれた。

 義光存命中から最上家中は重臣たちの内紛が絶えず、徳川と豊臣それぞれに加担する派閥があったりした。家親の死でますます分裂傾向が強まっていく。

 後継は家親の嫡子・家信(いえのぶ)(後に義俊(よしとし)に改名)、当時は元服前の12歳だった。幕府は家督相続を認めるにあたり、最上家重臣たちに家信を盛り立てて統治を行うようわざわざ指導している。

 にもかかわらず、内紛は止むことはなかった。元和8年に重臣の松根光広(まつ ね あきひろ)は家親の死は毒殺によるものだと幕府に訴えるが、根拠のない訴えを起こしたとして筑後国(現福岡県)柳川藩に預けられる処分を受けた。また、義光の四男の山辺城主・山野辺義忠を家信の後見人として藩政の実権を持たせようとする家臣たちもいた。

 幼主家信がこれらの動きを抑えられるはずもない。それどころか、酒色に溺(おぼ)れている、素行が悪いという評判すら立てられる始末であった。

 こんな有り様であったため元和8年、ついに最上家は改易(かいえき)された。近江国(滋賀県)と三河国(愛知県東部)合わせて1万石の領地替えとなり、家信は江戸藩邸に蟄居(ちっきょ)処分とされた。

 さらに近江の領地5千石のみの旗本となり、大名(所領1万石以上をいう)としての最上家は消滅したのである。

山形大学特任教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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