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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第30回

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義姫は悪女だったのか?

 この連載も終わりに近づいてきた。今回は義光の妹で、一般には悪名を着せられている義姫(よしひめ)を取り上げてみたい。

 最上家と緊張関係にあった伊達輝宗に嫁いだ義姫は、政宗と次男・小次郎を産んだ。ところが義姫は天正18年(1590年)、何と政宗を毒殺しようとしたとされる。

 当時、伊達藩は危機的状況にあった。天下をほぼ手中にした豊臣秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、大名間の私戦を禁じた。だが政宗はそれに反し、会津の蘆名(あしな)氏を攻めた。そのことが秀吉の怒りを買い、伊達藩は所領を没収されるかも知れないという窮地に立たされた。

 それを憂えた義姫は政宗を毒殺し、溺愛(できあい)する小次郎を後継者にしようと目論んだという。

 だが毒殺は未遂に終わり、小次郎は政宗に殺される。義姫は実家の最上家に逃げ帰ったとされる。さらに背後で義光が糸を引いていたという陰謀話までおまけに付いて、義姫と義光はすっかり悪役に仕立て上げられてしまった。

 だが現在では、この毒殺未遂事件は存在しなかったとする説が有力である。小次郎と彼を担(かつ)ぐ藩内の勢力を排除した政宗派が責任をなすりつけるために捏造(ねつぞう)したと考えられている。

 義姫は天正16年、最上家と伊達家が合戦に及ぼうとした際、両家の領地の境界の中山峠(現上山市)に輿(こし)で乗り入れ、80日間居座って和睦するよう迫った。その結果、合戦は回避されたが、義姫の行動は伊達側の一部の重臣たちには最上家を利するものと受けとめられ、義姫を排除する動きに繋がった。

 そんな家中の空気に耐えかねたのか、義姫は文禄3年(1594年)に伊達家を出奔(しゅっぽん)して山形に戻ってしまう。

 しかしその後も義姫は両家をつなぐ役割を果たす。「東北の関ヶ原」長谷堂合戦の際は政宗に援軍を求める手紙を出し、援軍に対して上杉軍の情報を伝えたりしている。

 義姫は最上家が改易された元和8年(1622年)に政宗のもとに戻り、翌年没した。政宗は母の13回忌に菩提(ぼだい)を弔うため仙台に保春院(ほしゅんいん)(臨済宗)を建立した。

 こうした義姫と政宗の関係を見ると、やはり毒殺未遂事件は作り話であったと考えられる。

山形大学特任教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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