セピア色の風景帖
《セピア色の風景帖》第185回 片洞門(小国町)
置賜と新潟を結ぶ旧越後米沢街道(十三峠)は古くから険道として知られ、三島通庸が明治9年に初代山形県令になると、これに代わるものとして明治14~19年にかけて小国街道を整備した。
最大の難工事は、猿獣さえも容易に通れないとされた断崖絶壁の谷間、桜川渓谷の開削(かいさく)だった。
片側には岩山、反対側には切り立った谷があるため、開削には岩山を削らなければならなかったが、当時の土木技術では巨大な岩塊を全て取り除くのは困難だった。
このため必要最小限の通行範囲をくり抜き、道幅を確保するという手法がとられた。その結果、開削区間は200メートルにわたって頭上に大きく岩が被さる地点が数多く生じ、半分が洞門(どうもん、トンネルのこと)のようになっていることから「片洞門(かたどうもん)」と呼ばれるようになった。
道が狭く断崖の道だった片洞門では死亡事故が多発したが、奇跡的な出来事もあった。昭和初期、トラックが道を外れ転落しかけたが、崖から伸びた木に車体がひっかかり、運転手はもの命を取り留めた。
開削時から観音様を祀って工事を進めたそのあたりは観音坂と呼ばれており、この一件も観音様のおかげだったのではないかと現地ではささやかれた。
片洞門は昭和34年、綱取隧道(つなとりずいどう)(現在の綱取トンネル)が開通したことで廃道になったが、現地の深い緑の中からは、艱難辛苦(かんなんしんく)をいとわず岩山の絶壁に挑んだ明治人のエネルギーが今でも伝わってくるようだった。(F)