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セピア色の風景帖

《セピア色の風景帖》 第146回 旧負ヶ沢橋(南陽市)

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 南陽市の吉野川沿いの太郎という地区に負ヶ沢という支流があり、小滝街道(県道5号山形南陽線)には負ヶ沢橋が架かっているが、並行して1.5メートルほど下に旧橋が埋もれている。

《セピア色の風景帖》 第146回 旧負ヶ沢橋(南陽市)

 旧橋の竣工は昭和3年とされ、銘標によれば橋名は「まけがさわはし」と記されている。高欄には鉄が使用されているが、これが当初からのものかは疑問が残る。
 錆びているとはいえ、80年以上も風雨にさらされたものとは思えず、後年の補強財と推測する。何より、仮に当初から鉄が用いられていたとしても、金属類は戦時中に供出された可能性があるためである。

 現橋の共用は昭和58年で、銘標に表されているのは「おいがさわはし」。新旧橋の関係性の一番の問題点である。漢字表記が同一にもかかわらず、読みが異なる。同じ読みに異なる漢字を当ててある(例:成沢→鳴沢)ものは多くあるが読みがまったく異なってしまう例は少ない。
 地名は文字の認識率が低かった時代から主に口伝で語り継がれるものであり、少々なまったり、詰まったりすることはあっても、たいていは同一の言葉で表される。

《セピア色の風景帖》 第146回 旧負ヶ沢橋(南陽市)

 昭和の初期と末期で読みが異なるということは、何らかの事情で橋名を変更せざるを得なかったのではないか。それはたぶん、橋名の語感によるところが大きいのではないだろうか。
 昭和初期の時点で「まけがさわ」となっていたということはそちらが「本名」であろう。それが現在「おいがさわ」になっているのは推測するに、戦争が影響していると思われる。

《セピア色の風景帖》 第146回 旧負ヶ沢橋(南陽市)

 戦時中には外来語を敵国語として禁止したり、敗退を連想させる言葉が禁忌だったことは知られている。その流れで「まけ」という名が避けられ、改名を強行されたという見方を取りたい。(F)

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