《セピア色の風景帖》 第106回 栗子山隧道
山形県は昔から、船運を別にすれば、隣県に行くには必ず峠道を通らなければならなかった。
特に福島との県境には奥羽山脈が横たわり、馬さえ通れないような難儀な山道を人の足でかきわけて進まざるを得ない時代が長く続いた。
この事態を打開しようとしたのは山形県の初代県令(知事)で、のちに福島、栃木の県令も歴任して「土木県令」「鬼県令」として知られた三島通庸(みしま みちつね)である。三島は栗子山に隧道(すいどう)(トンネル)を通し、交通を盛んにするべく工事を敢行しようとした。
労働力としての住民の徴用や、過重な負担の割り当てを行ったため反発も多かったようだが、1876年(明治9年)に着工、当時最新の蒸気式掘削機を導入するなどの技術を尽くして5年後の81年(明治14年)、ついに「栗子山隧道(くりこやますいどう)」は完成した。
当時、それはアジア初の本格的山岳工事だと評されたとか。876メーの隧道内に灯りはなかったが、荷馬車の通行は可能になり、県内外の物流、人的交流にも貢献することとなった。
開通の年、明治天皇の行幸(ぎょうこう)の際には隧道内は例外的に松明(たいまつ)による灯りで満たされ、天皇の通行に支障はなかったと記録されている。
天皇は難工事への賛辞も込めて「萬(万)世大路(ばんせいたいろ)」と命名した。「萬世ノ永キニ渡り人々ニ愛サレル道トナレ」の意味だとされる。
栗子山隧道はその後、1937年(昭和12年)に自動車の運行に対応するための大改修工事が施され、「栗子隧道」に名称変更される。そして66年(昭和41年)、隧道とは違うルートで峠を越える国道13号が開通して廃道になった。
栗子山隧道としては現在、山形側の坑口(こうぐち)を残すだけ。2009年(平成20年)に経済産業省の「近代化産業遺産」に指定され、廃道マニアの間では聖地になっているという。 (F)