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セピア色の風景帖

《セピア色の風景帖》 第二十四回 山寺

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 全国的にも有名な山寺は古くから落ち着いた観光地として存在していたかのようだが、四十年ほど前まではアドベンチャーワールドのような一面も持ち合わせていた。当時は山一帯に張り巡らされている修験道が開放され、まさに命がけの修験道巡りが行われていた。

《セピア色の風景帖》 第二十四回 山寺

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 忘れられないのは子供会の行事で一列になって大きな岩を鎖一本にすがって登った記憶だ。鎖から手が離れれば当人はもちろん、後ろの人も巻き添えにしかねない。にもかかわらず当時の大人たちは当然のように小学生にそんな危険なイベントを強いたのだった。

山寺

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 また五大堂付近からは、山門付近まで一気に滑り降りるコンクリート製の長大なすべ り台があり、子どもたちの冒険心をかきたてた。この滑り台には昭和三十年代に「裸の大将」で知られる山下清画伯が訪れたものの、恐れをなして結局滑り降りることができなかったという記述が残っている。実際、あまりにも急峻であったため摩擦でヤケドしたり、コースから外れてケガをしたりするアクシデントが絶えず、やがて使用中止になった。

《セピア色の風景帖》 第二十四回 山寺

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 昭和四十二年には立谷川を挟んだ対岸に「山寺芭蕉苑」が姿を現した。ジェットコースター、飛行塔などを備えた本格的な遊園地で、押し寄せる家族連れなどで周辺は殷賑(いんしん)を極めた。それも昭和五十年代末には勢いが衰え、時代が平成に変わるころに取り壊されて跡地は観光スポットの「風雅の国」になった。     (F)

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